
Tomomi Hayashi

1971年 富山県生まれ 1994年 横浜国立大学工学部建築学科卒業 1999年 ヴァージニア工科大学大学院建築学修士課程修了 1999-2001年 Rafael Viñoly Architects, New York, USA 勤務 2001-2003年 エストニア、タリンにてHead Arhitektid 設立, 共同主宰 2003年 Arhitektuurbüroo KOSMOSと共同 2004-年 Coo Arhitektid に参加、後にHG Arhitektuur に改組、 現在 Hayashi Grossschmidt Arhitektuur として共同主宰 2004年 2003年度エストニア文化基金建築賞 Lasnamäe Track and Field Center 2010年 2009年度エストニア文化基金建築賞 Rotermann New flour Storage and Old Storage office building

2011.12.24
2011.12.19
2011.12.14
2011.12.03
2011.11.27
エストニア・タリン便り_2011.12.14
2011.12.14
このブログでも何回か紹介したカドリオルグ公園を抜けて東にしばらく歩いていくと、大きな盆地のような広場にでます。高いところまで上ると海が望める気持ちのいい場所です。
ここは5年に一度開催される、タリンの歌と踊りの祭典の会場になります。

歌の祭典以外でもいろいろなコンサート(マイケル・ジャクソンやマドンナも来ました)や催し物に使われ、このスロープは冬には滑降のそりすべりの場所になります。初めて広場を見たときは、スタジアムのように屋根の下に観客が座るのだろうと考え、どうやって祭典とやらを行うのだろうかとしばし考えてしまい、エストニア人の友人を笑わせてしまいました。
ユネスコの無形文化遺産にも登録されているこの祭典の歴史を調べてみました。ロシア帝国の支配下にあった1869年に南の町タルトゥで初めての歌の祭典が行われ、51の男声合唱団、ブラスバンドと総勢845人の歌手が参加しました。当時はドイツ語圏の国では歌の祭典自体は珍しいものではなかったようですが、その後もエストア人は自分たちの民謡を歌い踊ることを国の行事として受け継ぎ、ソ連時代も続けられました。共産党の検閲を受けた歌からなる祭典ではあったのですが、民族衣装を着て集まったエストニア人は、公式のプログラムが終わった後に第二の国歌とも呼ばれる エストニア人作曲家 グスタフ・エルネサクス (Gustav Ernesaks, 1908-1993)の「Mu isamaa on minu arm」(わが祖国、わが愛)を自発的に歌い、心の中での自国の独立をかみ締めていたと聞きます。彼の銅像はここステージを見下ろす丘の上にたって(座って)います。
ソ連崩壊の兆しが見え始めた1980年代後半、暴力ではなく合唱を通して独立の回復をしようという、後に「SINGING REVOLUTION」と言う名で知られる動きが始まりました。1988年には独立を目指すグループが呼びかけ、約30万人が集まったアンオフィシャルな「夜」の歌の祭典が行われ、さらに1989年にはバルト三国が共闘して、エストニアのタリンからリトアニアのヴィリニュスまでの600kmを、200万人の手による「人間の鎖」で結んで独立への意志を示しました。そして1991年、地道な独立運動とソ連との独立回復交渉の末、一滴の血も流すことなく独立を回復しました。歌と踊りは人々の心を繋ぎ、自由を獲得するために重要な役割を果たしてきたのです。
今日にいたるまで、エストニア中から5年に1度タリンの歌の広場に集い、民族の誇りと自由の喜びを歌い続けています。

(via http://www.dw-world.de)
このステージを支え、特徴付けている屋根をご覧ください。このダイナミックな曲線で73メートルのスパンを飛ばしている屋根を含むステージはエストニア人建築家アラル・コトゥリ(Alar Kotli, 1904-1963)の設計によるもので1960年に完成しました。1923年に初めての恒久のスタンドとして別の場所に立てられていたものが手狭になり、1957年にコンペを通して選ばれたものです。

(Cross-section drawing, 1958 via Kultuurimälestiste riikliku registri andmebaas)
1953年に時のソビエト連邦共産党書記長だったスターリンが死去し、古典回帰的なスターリン様式から脱却し、国際的な建築の流れに戻ろうとした当時の勢いが感じられます。エストニアの建築史家マルトゥ・カルム(Mart Kalm, 1961-)は、1952年に合衆国ノース・カロライナ州に完成した、ポーランドから移民した建築家マシュー・ノヴィキ(Matthew Nowicki, 1910-1950)による Dorton Arena に使われた双曲放物面(ハイパーボリック・パラボロイド)を用いたが、一方のアーチを持ち上げ、放物面を音響反射板として使ったことは素晴らしいアイデアだと述べています。

(Cable net of the Dorton Arena via http://www.structuremag.org)
双曲放物面と言えば、フェリックス・キャンデラ (Félix Candela, 1910-1997)、丹下健三 (1913-2005)やエーロ・サーリネン(Eero Saarinen, 1910-1961)が思い浮かびますね。
もともとはアーチもすべてコンクリートで作る設計だったのですが、レニングラードの工事業者がそれを嫌がった結果、アーチにはコンクリートを詰めた鉄のチューブを使うことになったそうです。
この建物には後日談があります。なんとリトアニアの首都ヴィリニュスにある歌の祭典のステージも殆ど同じものなのです。何年か前にヴィリニュスのテレビ塔(これもタリンのものと同じデザインです)に上ったときにこの眺めをみて目を疑いました。

タリンのステージ完成後3年してできた建物は、ウィング部分だけはリトアニア人建築家リンヴィダス・アレクナ(rinwidas alekna)によって違うデザインで作られています。ソ連時代にアパートや映画館などの建設に広く行われていたスタンダードプロジェクト (standerdized project) の一環として作られたと誤解され、設計者の許可なしにコピーされたらしいのです。後に和解したとは聞きました。

(Children's song festival at Vingio park via www.travel.lt)
前述のエストニア建築史家マルトゥ・カルムは、「このようなステージを設計する技術を小さなエストニアでは後に繋げていけない。なので他国にデザインを輸出できたと考えればいいのではないか。しかし、立地条件の違うところで同じデザインをコピーするのはいかがなものか。少なくとも設計者に新しいプロジェクトとして依頼してくれればタリンでの経験を生かせたはずだ」と語ります。海を背景にしたタリンでの立地を考えれば森の中にあるヴィリニュスの広場ではこの全体の設計が完全に利いていないと言えます。場所の特性や特徴を見つけ設計のヒントにしている私には気持ちのいい話ではありません。
さて、前回の2009年、第25回目の祭典には3万人の参加者と8万人の観客が詰め掛けました。
私の両親も日本からやってて、ともに2日間のメインプログラムを楽しみました。普段は口数の少ない父親も、言葉は分からずとも熱気と雰囲気に酔い、感動したと語っていました。次回は2014年の7月です。ぜひ避暑を兼ねておいでください。
参考文献
Eesti 20. sajandi arhitektuur -Estonian 20th Century Architecture. Mart Kalm. Sild, Tallinn, 2002.